スタイルの履歴書 斎藤久夫 #05

Text:Kenichi Aono

Edit:Yusuke Suzuki

REGULAR

ファッションでも音楽でもスポーツでも、どんなジャンルもその人にしか出せないスタイルがある。“Style is Everything”。そう、だれかが言った、スタイルがすべて。『スタイルの履歴書』は、文字通りスタイルのある大人へのインタビュー連載。毎週月・水・金曜更新で、第1回目は〈TUBE〉の斎藤久夫さんをゲストに迎えて。

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05. パンツ製造日本ナンバー2の会社に。

 専門学校の同級生だったガマ(村松周作。ファッション・デザイナー、人形作家。故人)ともうひとりの友人は卒業してパリに行って向こうでいろいろアイデアを仕入れてくるという。俺は東京で生地や縫製のルートをつくっておくのでゆくゆくは3人でブランドをやろうと話をしていました。そんなわけで神田の「ミツボシ衣料」に就職したんだけど、ハワイから帰ってきたのが3月31日で初出社日が4月1日。すっかり寝ちゃって会社に行ったのは午後1時半過ぎでした(笑)。

 ミツボシ衣料はその当時はイトーヨーカ堂、西友なんかの量販店の安いパンツを200何十万本作っていた、日本でナンバー2の会社。まぁ下請けですね。とんでもない数をつくるもんだから、帝人、東レ、日清紡、クラボウ、東洋紡、伊藤忠、丸紅といった繊維メーカーや商事会社がみんな寄ってくる。専務が将棋好きだったので、各社の担当が「専務、将棋やりましょう」とか言って毎日来て将棋を差してましたね。こんな会社、3日で辞めてやろうと思っていたんだけど、上司がすごくいい人で「ここではいろいろ勉強できるから」と、生意気な俺を引き止めてくれました。仕事のあとは毎日遊んでいたから遅刻や欠勤が120日くらい。ひどいよね(笑)。

 配属になったのは新設された「企画室」という商品企画をするところ。でも学校で全然勉強しなかったからデザイン画も描けない。仕方ないから人のを写したりしてましたね。

  • イギリスにはじめていったのは30歳ころ。それから20年間ほどは毎年2~3回は行き、イギリスのモノを大切にする文化に影響を受けた。

    イギリスにはじめていったのは30歳ころ。それから20年間ほどは毎年2~3回は行き、イギリスのモノを大切にする文化に影響を受けた。

Profile

斎藤久夫(チューブ・デザイナー)

1945年、東京都本郷出身。自身のブランドである〈チューブ(TUBE)〉のデザイナーであり、大手セレクトショップやブランドのアドバイザリー、ディレクター業務を歴任。

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