スタイルの履歴書 斎藤久夫 #03

Text:Kenichi Aono

Edit:Yusuke Suzuki

REGULAR

ファッションでも音楽でもスポーツでも、どんなジャンルもその人にしか出せないスタイルがある。“Style is Everything”。そう、だれかが言った、スタイルがすべて。『スタイルの履歴書』は、文字通りスタイルのある大人へのインタビュー連載。毎週月・水・金曜更新で、第1回目は〈TUBE〉の斎藤久夫さんをゲストに迎えて。

3 15

03. 好きな服を買うためにアルバイト。

 高校の半ばあたりから銀座なんかで遊ぶようになって完全に「洋服1番、女の子は2番」でしたね。このころのスタイルはコンポラ。玉虫とか光っている生地のスーツを古着で探して着ていました。渋谷の恋文横丁にあった「さかえや」や横浜、横須賀まで足を伸ばして。男の仲間同士で服の話をしているのがとてもたのしかったですね。いまで言うオタク。可愛いものだよね(笑)。

 最初にくっついていた日比谷の連中は女の子に服を買わせたりしていましたが、こっちはそういうことはしなかったので、服を買うにはお金を工面しなくちゃならない。それでいろいろアルバイトをするわけです。1番最初は高校生のときにやった池袋の喫茶店のドアマン。いまじゃ考えられないけどちょっと高級な喫茶店にはドアマンがいたんです。

 大学を中退したあとは無職だったんですが、友達の家が不動産屋をやってて、詳しい経緯はわからないけどそこが凸版印刷の紙を乾燥させる部門の権利を持っていました。それで俺にも暇ならそこの仕事を手伝えと。1年半くらいやりましたが、これが結構なお金になった。当時で百数十万円。友達はそれで車を買ったけど、さて俺は何に使おうかな……と考えていたら、「メンズファッション専門学校」というのが開校するという。洋服は好きだし暇だし、行ってみるかと思い、バイトで稼いだお金はここの入学金とか授業料、それと好きな服を買うのに使いました。

  • 音楽や服などのユースカルチャーが自由に花開いた1960~70年代に、斎藤さん自身も20~30代を過ごせたことはひとつの財産。

    音楽や服などのユースカルチャーが自由に花開いた1960~70年代に、斎藤さん自身も20~30代を過ごせたことはひとつの財産。

Profile

斎藤久夫(チューブ・デザイナー)

1945年、東京都本郷出身。自身のブランドである〈チューブ(TUBE)〉のデザイナーであり、大手セレクトショップやブランドのアドバイザリー、ディレクター業務を歴任。

RECOMMEND