スタイルの履歴書。北村信彦 #3

Text: Kenichi Aono

Edit: Yusuke Suzuki

REGULAR

ファッションでも音楽でもスポーツでも、どんなジャンルもその人にしか出せないスタイルがある。“Style is Everything”。そう、だれかが言った、スタイルがすべて。『スタイルの履歴書』は、文字通りスタイルのある大人へのインタビュー連載。毎週月・水・金曜更新で、第6回目は〈ヒステリックグラマー〉のデザイナーであり、常に音楽と共に生きる北村信彦さんのストーリー。

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03. ロックにハマっていったローティーン。

 引っ越した春日部で「武里レインボーズ」という少年野球チームに入ったんです。そのチームは夏休みなんかに山梨の塩山に遠征があって。遠征のときは向こうで一泊して、昼間は野球、夜はキャンプファイヤーとかをして相手チームと交流したりしました。それであるとき、相手チームのメンバーのお兄ちゃんが来ていて、夕食後にそのひとの部屋に遊びにいったら、ディープ・パープルが爆音でかかっていた。確か『ブラック・ナイト=24カラット』(1975)だったかな。それで「なんだこの音楽は」と驚いたんです。

 当時、ぼくの4つ上くらいのいとこがビートルズとかローリング・ストーンズに狂っていて、そのいとこがぼくが小6だったか中1のときに「信彦、この日空いてる? 空いてたらちょっと付き合えよ」と誘われて行ったのがスージー・クアトロのライブ。そこで「なんかヤバイもの見ちゃったぞ」と衝撃を受け、以前聴いた『24カラット』なんかのことも相まってロックにハマっていきました。

 当時の情報源は『ミュージック・ライフ』や『音楽専科』といった音楽雑誌と、レコードとラジオ。あるとき、パティ・スミスのファースト・シングル「Hey Joe」のB面の「Piss Factory」って曲がヤバイらしいという噂が流れてきたんですが、大貫憲章さんのラジオを聴いていたらそれがかかった。「え、これもロック……?」と、それまでと違うところに連れていかれた体験でしたね。

  • 洋楽の扉を開けたのは小学生高学年のころ。今とは違い情報が少なく、ラジオと雑誌、レコードのジャケットやクレジットが貴重な情報源。

    洋楽の扉を開けたのは小学生高学年のころ。今とは違い情報が少なく、ラジオと雑誌、レコードのジャケットやクレジットが貴重な情報源。

  • 「まだこれしか(レコードを)持ってなかったんだね(笑)」と話すように、中学生&高校生にとってレコードはとても高価なものだった。

    「まだこれしか(レコードを)持ってなかったんだね(笑)」と話すように、中学生&高校生にとってレコードはとても高価なものだった。

  • 部屋でギターを弾く姿。楽器をやろうとも思ったが「自分より上手いひとがまわりにいるし、自分は聴いて楽しむほうで」とのこと。

    部屋でギターを弾く姿。楽器をやろうとも思ったが「自分より上手いひとがまわりにいるし、自分は聴いて楽しむほうで」とのこと。

  • 「Piss Factory」が収録されたEP。数十年後に北村さんとパティ・スミスの運命的な出会いがあるなんて、当時は想像もできなかった。

    「Piss Factory」が収録されたEP。数十年後に北村さんとパティ・スミスの運命的な出会いがあるなんて、当時は想像もできなかった。

Profile

北村信彦(ヒステリックグラマー・デザイナー)

1962年・東京都三軒茶屋出身。1984年にアパレルメーカーのオゾンコミュニティに入社し、直後の21歳で〈ヒステリックグラマー
(HYSTERIC GLAMOUR)〉をスタート。40年以上音楽と共にあり続ける姿は、日本だけでなく世界中に多くのファンを持ち、数多くのミュージシャンやアーティストと親交が深いことでも知られる。

Instagram @nobuhikokitamura@hystericglamour_tokyo

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