スタイルの履歴書。 吉田克幸 #2

Text:Kenichi Aono

Edit:Yusuke Suzuki、Miyoko Hashimoto

REGULAR

ファッションでも音楽でもスポーツでも、どんなジャンルもその人にしか出せないスタイルがある。“Style is Everything”。そう、だれかが言った、スタイルがすべて。『スタイルの履歴書』は、文字通りスタイルのある大人へのインタビュー連載。毎週月・水・金曜更新で、第4回目は〈ポータークラシック〉創設者の吉田克幸さんの半生を辿ります。

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2. 舶来品に傾倒した10代のころ。

 中学から暁星に通ったんですが、そのころは日比谷にあった日比谷座とか有楽座といった封切り洋画をかけている映画館に行って『ナバロンの要塞』や『ベン・ハー』なんかを観ました。日比谷の「三信ビル」(現在は解体。跡地は東京ミッドタウン日比谷の一部)には舶来ものを扱う雑貨屋があって、そこで初めて〈LACOSTE〉に触れたり、「ニュー・ワールド・サービス」というカフェ・レストランでチョコレート・ミルク・シェイクなんか飲んだりしてね。そんなふうに海外のものに実際に接する機会も増えました。10歳ほど上の兄貴(吉田滋。株式会社吉田の前社長、故人)がまたそういうのをよく知ってて、連れていってもらいましたよ。

 親父はその兄をイタリアに修行に行かせます。これが1960年。このときに兄貴が買ってきた〈GUCCI〉やなんかのバッグが寝床にたくさんあって、両親は「こんなに買ってきたらうちの会社潰れちゃうよ」なんて言いながらも「いいものを買ってきたね」と。この感性はすごいなと思いましたし、選んできた兄貴のセンスにも感心しましたね。

 このころになると、着るものはさっきの三信ビルの店やアメ横で買うように。アメ横はピンキリなので、いいものに出合えるかどうかは選ぶ側の問題だ、なんて思っていました。そういう経験を積んだから、晩年になって「最後は日本製のものに包まれて死にてぇな」と考えるようになったんだと思います。

  • 家業が鞄屋で自宅と会社が同じだったこともあり、幼少期から仕事の現場が身近だった。母親からの影響で、洋風な食事が自宅で出たりレストランへ連れて行ってもらうなども海外文化への興味を持つきっかけに。

    家業が鞄屋で自宅と会社が同じだったこともあり、幼少期から仕事の現場が身近だった。母親からの影響で、洋風な食事が自宅で出たりレストランへ連れて行ってもらうなども海外文化への興味を持つきっかけに。

Profile

吉田克幸(ポータークラシック 代表)

1947年生まれ。1981年にはニューヨーク・デザイナーズ・コレクティブのメンバーに日本人で初めて選出された。2007年に息子の吉田玲雄と〈ポータークラシック〉を設立し、刺し子文化など「メイドインジャパン」にこだわったものづくりを続けている。

HP:https://porterclassic.com/
Instagram:@porterclassic_official