スタイルの履歴書。 菊池武夫 #1

Text: Kenichi Aono

Edit: Yusuke Suzuki、Miyoko Hashimoto

REGULAR

ファッションでも音楽でもスポーツでも、どんなジャンルもその人にしか出せないスタイルがある。“Style is Everything”。そう、だれかが言った、スタイルがすべて。『スタイルの履歴書』は、文字通りスタイルのある大人へのインタビュー連載。毎週月・水・金曜更新で、第3回目は日本を代表するメンズブランド〈タケオキクチ〉の創設者兼デザイナーの菊池武夫さんの半生を辿ります。

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1. 戦争の記憶とその頃の生活。

 1939年5月25日生まれなので、戦争が間近のころです。戦時中も父が「大丈夫だ」というんで疎開せずに生家の千代田区の富士見町で暮らしていました。幸い我が家には焼夷弾が落とされることはなかったのですが、終戦直後は家のまわりの道路に死体が転がっているのを見た記憶があります。

 終戦の1年前くらいに肋膜に膿がたまる病を患いまして、日本医大の外科部長の先生に自宅で手術してもらいました。麻酔なしでとんでもなく痛かったのを覚えています。おそらく軍関係からまわしてもらったと思うのですが、終戦直後にペニシリンが入ってきて、それを化膿どめに使って治療したんだそう。日本人で2人目の使用だったみたいです。

 当時の実家は敷地が480坪で、典型的な平家の日本家屋を挟んで両側に親父が仕事で使う洋館が建っていました。寝食など普段の暮らしは平家の方でしたが、こっそり洋館に忍びこんで遊んだりしていましたね。

 親父の服装は完全な洋風というかロシアっぽい感じで、不思議な洋服の感覚でした。わたしは戦後になると米軍の放出品の子ども服を着せられて。ジーパン、前ファスナーでリバーシブルの化繊のブルゾンに革靴という感じでした。ほかの家庭と同じように食糧が不足していた時期もありましたが、我が家はその期間はずいぶん短くて、早くに復興できたように思います。それも親父に政治家とのつながりがあったからでしょうね。

  • 12人兄弟の6番目に生まれたが、上と下のふたりは生後すぐに亡くなってしまっている。父親は事業を営んでいたので、幼少期は裕福な環境で育ったそう。

    12人兄弟の6番目に生まれたが、上と下のふたりは生後すぐに亡くなってしまっている。父親は事業を営んでいたので、幼少期は裕福な環境で育ったそう。

Profile

菊池武夫(タケオキクチ 創始者兼デザイナー)

1939年生まれ。日本を代表するメンズブランド〈タケオキクチ〉の創始者であり初代デザイナー。音楽、映画、クルマなど多彩な趣味を持ち、2024年には生誕85年を記念して自身が監修するジャズ・コンピレーションをリリースした。

HP:https://store.world.co.jp/s/brand/takeo-kikuchi/
Instagram:@takeokikuchi_official